23.逃げ出す彼女のセレナーデ
王城から少し離れた裏路地にある酒屋。
そこがレーバー亭である。
そこに1人の男が酔い潰れて眠っていた。
ファウストだ。
普段は整えられた髪も今はめちゃくちゃになっている。
「ファウスト、飲みすぎじゃない? 」
ウェーナがそっと声をかけると、ファウストは唸り声をあげた。
「……まあ確かに、あなたのこと可哀想だとは思うよ。
まさか二重人格だったとは」
つい先日の事件だ。
ファウストはいつものようにシュティルンの元を訪れた。
この日は彼女の様子がいつもと違って、どこか焦っているように見えた。
何かあるのだろうか。そう心配して彼女に言われるがまま庭の小屋にお邪魔した。
思えば彼女が自分から男と2人きりになる状況を作り出していたことがおかしかったのに、その時のファウストは全く気が付かなかった。
小屋に入りソファに座るといきなりシュティルンは彼に抱きついた。
驚いて身動きが取れないでいると彼女は抱きしめて、と言った。
好きな人に涙目で言われて抱きしめない男がいるだろうか。
彼は抱きしめた。なにがあったのかわからないが、これで彼女の心が休まるなら役得……いやお安い御用だと。
しかし彼女はそのままキスしてほしいと言ってきた。
さすがにそれはマズイのでは、とファウストが戸惑っているとシュティルンはしびれを切らした様子でファウストの首に手を回し口づけをした。
彼はこれ以上はダメだ、と思いながらも彼女をどかす事はおろかキスを止めることができなかった。
むしろ深くしていた。
シュティルンがなにを考えているのわからないが、彼女とのキスでフワフワになった頭ではなにも思いつかなかった。
ただ彼女が自分を少なからず好きでいてくれたのだと嬉しかった。
それがまさかの二重人格で、しかもファウストにシュティルンの男嫌いを直すように言ってきたゲシュライだったとは。
「……馬鹿すぎる……」
「普通気がつかないの? 」
「男だと思っていたんです ……話し方や身振りが貴族の男そのもので ……」
「顔を見ていればね。
まあでも仕方ないよ。切り替えていこう。というか、切り替えてもらわないと困る」
正直、ファウストの失恋などどうでもいいウェーナはハイハイと手を叩いた。
おっさんの恋など。
「自分はユグルムとイチャついているから俺の失恋話なんてどうでもいいんでしょうね」
ファウストはそう言うとそのままグラスに残っていたお酒を呷った。
「至る所でキスして……見せつけるのやめてください! 俺は傷心なんです! 」
思わぬ叫びにウェーナは顔を赤くする。
「ちが! あれはユグルムが……!
それにそういうのじゃなくて……そもそもユグルムとは友達で、あれは彼の挨拶だから! やめて! 」
「挨拶? そんなわけないですよ、ウェーナさまにしかやらないのに ……」
「わ、私にしか ……? 」
彼女の声は期待で上ずる。
その期待に応えるように、ファウストは声を大きくした。
「前言ったんです。他の人にキスしたらウェーナさま怒るよーって。
そしたらあの子、ウェーナにしかしない、ウェーナはキスするとすごく嬉しそうにするからウェーナには特別にしてるって。
ハア……やれやれ」
ファウストは酒臭いため息をついた。
ウェーナの顔がますます赤くなる。
「しかも、なら俺がウェーナさまにキスしたらどうするって悪戯心から聞いてみたんですよ……あ、しませんよ。冗談ですから。
そしたら、絶対ダメって言われましたよ。 お熱いですね」
嫉妬心からなのか、はたまた警戒されているからなのかわからない。
というのも、ユグルムに「ファウストはわるいビョーキもってそうだからダメ」と言われたからだ。
人をなんだと思っているのだろうとファウストは少しショックを受けた。
「……そ、んなことより、じゃあそうね、あなたの失恋を解決しましょう」
ウェーナは話を逸らそうと声を裏返しながらそう言った。
ファウストは気の強い彼女がユグルムの話をするときだけ動揺することに、甘酸っぱい気持ちになった。
「失恋を解決って? 」
「新たな出会いとかかな」
彼は呆れた顔になった。
失恋した次の瞬間別の誰かを好きになれる切り替えスイッチは持っていない。
そもそもシュティルンのことを彼はしばらく忘れられそうになかった。
彼にとって全てが完璧だった。何もかもが彼を魅了していた。
「なにが辛いって、向こうは利用する道具くらいにしか俺のことを思っていなかったことですよね……俺が悪いんですけど……」
「でもそれはゲシュライ側だけでシュティルン様はそうは思ってなかったかもしれないよ」
「二重人格間で会話できないものなんしょうか」
「二重人格の人だなんて初めて会ったからわからない」
それはファウストだって同じだ。
何回か、そういう人がいると聞いたことがあったが実際にいるとは思わなかった。
だがあの豹変っぷりを見て嘘とも思えず、実際に……それも好きになった人が二重人格だったのかと納得せざるを得なかった。
「今後どうするの」
「ユグルムの様子もあなたが見れない時は見に行くつもりですから、定期的に顔を出すつもりではいますよ」
ただうまく話せる自信がファウストには無かった。
* * *
久しぶりにファウストがシュティルン宅にやって来た。
暫く彼は来ていなかったが、それは 本物のウェーナ王女と関わりがあったからだそうだ。
今や彼女はコルプス国の正当後継者として、そしてケルパー国和平交渉の主軸となって、忙しそうにしていた。
ユグルムも寂しそうだ。シュティルンはそんな彼の気を紛らわすために音楽会によく行くようになった。
ユグルムとシュティルンは、ウェーナ王女が屋敷に訪れるようになってから仲が良くなった。
それまでは殻にこもって関わらないようにしていたシュティルンだったが、甘酸っぱいウェーナとユグルムにいつのまにか微笑ましい気持ちで接するようになっていたのだ。
それにしても、とシュティルンはため息をつく。
彼女はファウストから明らかに避けられている。
シュティルンと目が合うと一瞬硬直し顔には焦りや戸惑い、そして少しだけ落胆の色が浮かぶようになった。
これはなんだろうか。
「……ファウストさん」
彼女は小さな声で彼の名前を呼ぶ。
ファウストは少しだけ硬い声で「なんでしょう? 」と返事をした。
警戒心の浮かんだ顔。
「私……あなたに何か失礼なことを致しましたか……」
その言葉を聞いた瞬間、ファウストの顔に怒りが浮かんだ。
シュティルンにはそれが何故か分からなかった。だが怖いと思った。
今までファウストが彼女に対して怒りの表情を浮かべたことはない。
そもそもあまり明確に怒りを露わにしたことはなかった。
それなのに、彼女が理由を尋ねただけでさあっと怒りが込み上がったのだ。
これは、何かしたのだろう。
シュティルンは怖くなって逃げるようにその場を後にした。
自室に篭りベッドで丸くなる。
「なに落ち込んでんだよ。お前に恋愛なんか無理なんだってわかりきってただろ?」
もう1人の自分がこちらを嘲笑うように見下ろしていた。
そう、シュティルンはファウストのことが好きだった。
彼が自分を好きになるよりも前から。
彼は素直で、言ってることとやっていることと思っていることが一致し、しかし嫌なことがあっても顔には出さず、人情を重んじる。
シュティルンの周りにはいない人で、気がつけば恋に落ちていた。
「ちょっと相手を怒らせただけで全身に震えがきちゃうようなやつが、恋愛なんて出来るのか?
恋愛どころか友情を築けた試しがないくせに。
友人と呼べるのはあのヘタレと鈍感だけだろ 」
「黙って」
シュティルンは布団を被った。
だがもう1人は布団の中に侵入し、ニヤニヤとシュティルンを見つめていた。
「気持ちなんかわからなけりゃ良いのになあ」
「あなた何かしたんでしょう」
「知りたいか? でも教えたらお前、また動けなくなるだろ」
シュティルンは脆い。少しのことで体が動かなくなってしまう。
だがそうも言ってられないだろう。彼女は「何したの」と強い声で尋ねた。
「あの男とキスしたんだよ。キスだけ、他は何もしてない」
キスだけ、というが、シュティルンは目眩を覚えた。
このもう1人はすごく厄介だ。彼女が知らないところで知らない女とベッドを共にする。
朝目が覚めた時隣に見知らぬ裸の女が寝ていて絶叫したことが何度もあった。
「なんてことを! 」
「それもこれも、両親がお前の男嫌いを治すために金を出すって言ったからだ。
ファウストに協力してもらって、金を山分けしてここから出て行く。サイコーだろ? 」
シュティルンは首を振った。
確かにここから早く出て行きたい。だが金だけがあっても仕方ないのだ。
自分には何もない。一人では生きていけないから、ここにいるのに。
「それはお前がそう思っているだけだ。 俺はそうは思わない。
それにここにいたってどうなる?ただ心をすり減らして死んでいくだけだ」
「だからってあの人に迷惑をかけるなんて最低だわ!
あの人から、嫌われたくなかったのに……」
「誰かに迷惑かけてでも生きることが大事だろ! 」
「もう耐えられない……死にたい」
「死んでどうなる! お前が死んだら皆喜ぶだけだぞ! 今は死ぬな! 周りに最大限に迷惑をかけてから死ね!」
シュティルンは耐えられなくなって涙を流す。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
だが、もう1人のシュティルンは更に彼女を悲しみの底へと突き落とす。
「言っておくけどな、ファウストは金の為にお前の男嫌いを治す協力をしていたんだぞ。
お前のことが好きだったのは結局大金が手に入るからだよ。きっとお前のこと金塊にでも見えてたんだろうな。
なあ、そんなやつに迷惑をかけて何が悪いんだ? 」
そんなはずない、とは言い切れなかった。
彼女は何故ファウストがこんなにも自分に対して好意的なのか全くわからなかったからだ。
シュティルンはその人のその瞬間の感情はわかっても理由はわからない。心の中まで読めるわけではないのだ。
彼女は嗚咽を漏らす。
自分にこんな感覚が無ければ良かった。
両親が男児を望んでいたこと。ずっと重圧だった。
その後結局子は産まれず、両親はシュティルンがせめてシェーデルと結婚できるようにと、彼女が嫌がっても王城に通わせた。
シェーデルに会うと漏れなくブルートとも顔を合わせなくてはならない。
ブルートは恐ろしかった。人の気持ちがまるで理解できないのだ。
そんなブルートがトレーネを愛し婚約を申し込んだが、それをトレーネは断った。
彼女は自分がシェーデルの父親違いの姉であるからだということを知っていた。
彼女は兄妹間での婚約という禁忌を恐れた。
だが、トレーネとブルートに血の繋がりはない。ブルートとシェーデルが母親違いの兄弟であることを知らなかったのだ。
そのせいでトレーネの家が崩壊した。
賭博にハマらせ、トレーネが浮気の果てに生まれた子供だと母親に教えたのだ。
あれよあれよという間にトレーネの家は崩れていった。
ブルートはトレーネに好かれていると思っていたのに(それはあの時までは間違えではなかった)、断られたことで人の気持ちがよりわからなくなってしまったのだ。
それからブルートは人の感情を理解しようとさらに実験するようになる。
その犠牲者は逃げ足の遅いシュティルンであった。
ブルートの支離滅裂な感情と、トレーネの家が崩壊した悲しみと、シェーデルの姉に何もしてやれない無力感と、親の期待と、その全てを受け止めようとして結局シュティルンはめちゃくちゃになってしまった。
親の描く理想の男であるシェーデルを脳内で作り彼に全て押し付けた。
それがいつのまにか人格を持ち彼女を支配してしまう。
彼女の苦しみは螺旋を描いて落ち続ける。
もうなにもかも手放そう。全て諦め自分の運命を受け入れること……これが最善なのだ。
悲しみに染まった頭で1つ想うことがあった。
せめてファウストに謝罪しなくては。
* * * * * *
補足
ブルート(29歳)
トレーネ(28歳)
シェーデル(18歳)
ブルートは現ケルパー国王の妾の子。
シェーデルは現ケルパー国王の正妻の子。
トレーネは現ケルパー国王の正妻の浮気相手の子。
* * * * * *
ファウストがいつものように、遅い時間に酒を飲んでいると、一人の女性が現れた。
またウェーナだろう。彼は酩酊した頭で椅子を引いた。
「ファウストさん」
柔らかい声にファウストの肩が跳ねる。
顔を勢いよく上げると、困った顔をしたシュティルンがいた。
「……夢……? 」
ファウストは手を伸ばしてシュティルンの頬に触れた。
暖かい。
「いえ……現実です」
恥ずかしそうにするシュティルンを見てファウストは慌てて手を離した。
何故こんな辺鄙な場所にこの美女がいるのだ。
ファウストの酔いが覚めていく。
「な、なぜここに! 」
貴族の娘がここにいたら危ないというのに……。
シュティルンは小さくすみませんと謝るとファウストの横に座った。
「あなたに謝りたくて来ました」
「謝る ……? 」
そうして彼は、シュティルンの家にお邪魔した時いきなり彼女が部屋へと戻ってしまったことを思い出した。
あれはなんだったのだろうか。
「……私の中に、もう1人いると知ってますよね」
「……ええ」
思わず顔を顰めてしまった。
それを見たシュティルンの体がこわばる。ファウストはさっと真面目な顔を作って話を促した。
「それで」
「全部聞きました。
あなたにご迷惑をおかけしたこと謝りたいと思って伺ったんです」
「いえ……」
そもそも謝ることではない。
ただファウストが勝手に期待して勝手に失恋しただけの話だ。
「これを」
シュティルンは小包を彼に渡した。
開けずともわかる。金だ。
「これはなんですか」
「……男嫌いを治してもらったお礼です。
ありがとうございました」
シュティルンが丁寧にお辞儀をした。
瞬間、ファウストの頭には様々な感情が沸き起こった。
彼女に自分が大金が欲しいから近づいたと思われていること。
彼女はこの金を手切れ金としていること。
ファウストは目頭を押さえて深くため息をつく。
「いりません」
吐き捨てるように彼は言う。
「ですが」
「私は確かにあなたの男嫌いを直すという名目で近づきました。でもそれはお金のためではありません。
ユグルムを安全な場所に移すことが第一の目的、そして第二の目的はあなたが心配だったからです。
貴族なのに人嫌いではやっていけないだろうと……余計なお世話でしょうけどね」
シュティルンは呆然とした顔でファウストを見つめた。
彼は小包をシュティルンの方に押した。
「これはあなたの物でしょう。
……そもそも、謝るべきは私です。
理性の無い行動を取りました」
「 ……構いません」
シュティルンはそれだけ言うと立ち上がった。
「このお金はユグルムくんのために。
今後彼はウェーナ様の所に行くでしょうが、それまではあなたの所に置いてあげてください」
「どういうことですか……? 」
「私は遠い所に行くことにしました。なので、ユグルムくんの面倒を見ることができなくなり……すみません」
「遠い所って? どこに行くつもりです」
ファウストはなんだか嫌な予感がした。
その予感は的中する。
「……結婚をすることにしました。
まだお相手もいませんが……王都には帰って来ません」
彼女の淡々とした言葉とは裏腹に、ファウストは嫉妬に染まっていく。
自分が彼女の人嫌いを(少しだけでも)直したというのに、他の男の元へ行くだと? 冗談じゃない。
シュティルンが他の男に笑い、触られるところを想像して彼はグラスを叩き割りそうになった。
成金商人の自分なんか不相応なのはわかっている。
だとしても絶対に彼女を渡したくないという強い気持ちが沸き起こる。
シュティルンの細い腕を掴んで自分の方に抱き寄せる。
そのまま彼はキスをした。先程理性のない行動をしたと謝った、舌の根も乾かぬうちにこれである。
シュティルンが驚いた顔をしたままファウストを見つめる。
そんな彼女が可愛くて、愛おしくて、そして少しだけ憎たらしい。
一度彼女から離れ、華奢な腰を抱き自分の膝の上に乗せる。そうしてまた口付けを再開した。
シュティルンは戸惑っているようだが、抵抗はしない。それどころか恐る恐るだが、腕をギュッと掴んできた。
しばらく彼女の柔らかい唇を堪能してから唇を離す。
シュティルンはトロンとした目をしながらも、戸惑いを隠せないようだった。
「ふぁ、うすと、さん、あの……」
「俺はあなたの唇を二回も奪いました。
しかも今回は目撃者も多いですよ」
ファウストはレーバー亭の客をちらりと見た。客たちは皆一様に顔を逸らす。
見ていたことがバレたとバツが悪そうだ。
「他の男と結婚なんて出来ませんね? 」
酷いことをしたと思った。
さすがの彼も普段はこんなことはしないだろう。
だが、酒を飲んでいたせいでまたも理性が飛んでいたのだ。
シュティルンは呆けたように「わたしのこと好きなんですか……」と呟く。
それからフッと自嘲気味に笑う。そう、彼女は感情がわかっても心が読めるわけではない。
ファウストが本気で自分を好きだなんてわからなかった。
「そうですよ。あなたのことをずっと想っていました」
ファウストはこの気持ちが少しでも伝わればいい、と彼女の目をしっかり見つめた。
それは、シュティルンには強すぎるほど伝わっていく。
「なにもこんな厄介な女を好きになることないのに」
「それでもです」
シュティルンは笑った。いつもの苦しそうな顔はどこにもなく、無邪気に。