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22.凍える国の者たちへ捧ぐレイクイム

「結婚するの? ウェーナが? 」

ユグルムが首をこてんと傾げた。
柔らかな髪がフワリと揺れる。
バラに囲まれたベンチに嫋やかに座る彼は、まるで花の妖精のようだった。

「違うよ。結婚してたことにして、その後離婚したことにするの。
ケルパー国は離婚しても良いから。
そうすればカルワリアがシェーデル様と結婚できるでしょ? 」

「うーん? 」

「どこがわからないの? 」

ウェーナが彼の横に座ると、ユグルムは嬉しそうに彼女の肩に頭を乗せた。
ここはシュティルン家の庭だ。
誰かに見られたら恥ずかしいと思う気持ちと、ユグルムのことが愛おしくてずっとこうしていたいという気持ちがウェーナの心中に交互に沸き起こった。

「どうしてウェーナが結婚してたことにしなきゃいけないの?」

二人でいる時はいつもコルプス語で話していた。
その方がユグルムが喋りやすそうだからだ。

「カルワリアが私のフリをして結婚させられていたからだよ」 

「あー! だからカルワリア、こっちで会ったとき、ウェーナって呼んでって言ってたんだ」

「そうだね」

よく気がついたね、とウェーナが褒めるとユグルムは蕩けたように笑い、彼女の手を握った。

「それで、どうして離婚するの? 」

「私の名前でカルワリアは結婚したでしょう?
だから、私の名前で離婚して、その後カルワリア本人の名前で結婚しなおすの」

「ふーん ……」 

ユグルムはウェーナの指を弄りながら不満そうにした。
彼の細く滑らかな指は美しい。

「どうしたの? 」

「ややこしい」

「確かにそうだね」

ウェーナはアハハと小さく笑う。
元はと言えば今は亡きテルグム王が全て悪いのだが、ウェーナは自分にも責任があると思っていた。
あと半年早く動いていれば、カルワリアを巻き込むこともなかった……。
ただそうなると彼女はシェーデルと出会う事は無かった。
それは、カルワリアから希望を奪う結果になっていたんじゃないだろうか、とウェーナは思う。

「ウェーナ疲れた? 」

「ん? どうして? 」

「んー。なんとなく」 

確かに彼女は疲れていた。 
ブルートがいきなりテルグム王の首を、シェーデルの使用人に渡したのだ。 
使用人とシェーデルはそれはそれは、とんでもなく怒り、特に使用人は彼の義足が変な方向に曲がるほどボコボコにしていた。
義足だと知らなかったのでウェーナは、人間の足があらぬ方向に曲がるのをどうやって治したらいいのだろうと半泣きで思っていた。

その中でカルワリアだけがその首を見て満面の笑みを浮かべていた。

テルグム王が思わぬところで死んだため計画の変更を余儀なくされた彼女は慌てて国に戻り、使える大臣や貴族をまとめて今後やるべきことを指示したりなんだりと大忙しだった。
今のところウェーナが女王になることに意義を唱える声は少ないが、もう少ししたら増えるだろう。
しかしまた祖父のような者を王にされる訳にはいかないので、ここで踏ん張るしかない。
彼女は腹に力を込めた。

「大丈夫だよ」 

本当はこうしてユグルムと会う時間は無かったのだが、男言葉で話すシュティルンが彼女を見つけると半ば攫うようにここに連れて来たのだ。
その強引さは、ちょっとありがたい。

「ウェーナ」

ユグルムが白い腕を伸ばしてウェーナの肩を引き寄せた。
ウェーナの頭を彼の細い胸に寄りかからせ、彼女の耳元で囁く。

「歌ってあげるから少し休んで」

ウェーナは彼の低くなった声にどきりとした。
まるで声変わりをしたようだ。
その昔彼を拾ったとある男は、彼の声に才能を感じると声変わりしないように、成長しないようにと彼の性器を切り取った。
それ以来ユグルムは少年のままだ。正確な年齢はわからないが、彼はウェーナとそう歳が変わらないはずなのに可憐で幼い。

「寝たらダメ……」

「歌い終わったら起こしてあげる」

ユグルムは彼女の体を倒すと自分の膝の上にウェーナの頭を乗せた。
彼女のサラサラした黒髪を撫でる。

ユグルムは歌を歌うのが好きだ。だがそれ以上にウェーナが好きだ。
彼女は自分を気にかけてくれるし、他の人のように酷いことをしてこない。
何より大事な一番の友達。

前のような澄んだ声で子守唄を歌うことはできないが、掠れた低い声になったことで以前は歌うことのできなかった渋い歌を歌えるようになった。
喉を震わせ、今の彼が歌える最高の子守唄を歌う。
ウェーナはユグルムの子守唄を聞き入っている内に本当に眠ってしまった。
彼女の意識は深い過去へと飛んでいく ……。 

* * *

朝はいつも、祖父の怒鳴り声で目が覚めた。
毎日毎時間毎分毎秒どうでも良いことで使用人達を怒る。 精神に異常を来しているのだ。
今日はカルワリアが怒られているらしい。彼女の黒髪を引っ張りその背中を杖で殴っていた。
ウェーナは見ていられなくなって止めようとする。しかしそれを他の使用人達が阻止した。
テルグム王は最早何の区別もつかない。ただ自分を怒らせたらその者を殴るのだ。

「離して! カルワリアが殴られているところを黙って見てろって言うの!? 」

「お願いですウェーナ様お願いです。どうかおやめください。あなたに何かあったらどうしましょう。誰が王を止められるのです。
お願いです、お願いです」

使用人は目に涙を浮かべてそう訴えた。
ウェーナはどうすることもできなかった。 
ただハーレムの女達を守りたかった。 
暴力の様子を、彼女の兄サングイスが諦めたように眺めていた。

「なに、見てんの! あんたの恋人でしょ! あんたが守りなさいよ! 」

「……無駄だろ」

それだけ呟くとサングイスはその場を後にした。
昔はもっと喜怒哀楽が激しかった。
いつの間にか、あの諦めた表情を常に浮かべて何をするにも無気力な人間になってしまった。

暴力の嵐から解放されたカルワリアに駆け寄る。
彼女はどこか寂しげな表情をした美人だ。その顔が晴れ上がっている。 

「大丈夫!? 」

「へいきですありがとうございます」

「……カルワリア」

「へいきですありがとうございます」

「……行こう。手当てしないと」

「へいきですありがとうございます」

カルワリアの腕を引いて医者の元へと連れて行く。
ここにいる医者はまるで人の心が無いかのように冷たく、事務的に手当てをしていた。

「また跡になるでしょうね」

医者はそう言った。
ハーレムの女たちは最低限の手当てしか受けられない。
彼女の背中は、王の暴力により傷だらけで変色していた。

「なんとかならないの」

「努力はしてみます」

医師は皆、ハーレムの女たちよりも、大臣やウェーナやサングイスの為に医療道具を使いたがる。
女たちに使うのはもったいないと言う訳だ。 

「あなたねえ ……! 」 

「へいきです……」

カルワリアの目から涙が溢れる。

「へいきです。だいじょうぶです」

「平気じゃないでしょう ……。 
……ごめんなさい、何もできないで」 
 
彼女は何度も首を振る。 

「あなたが何もされなくてよかった」

何故、誰も何もしない。
あの王を誰も止めない。
ウェーナは父が死んだ時のことを思い出す。癇癪を起こした祖父が杖を父の頭に振り下ろしたのだ。
ゴツンと大きな音がして、それきり父は動かなかった。
それから祖父はよりおかしくなった。

「カルワリア」

部屋にサングイスが入って来た。
彼なりに心配したのだろう。だがウェーナはふいと顔を背けた。
今何か話されたらまた怒鳴ってしまう気がした。
怒るということは、まるで癇癪持ちのあの祖父のようで嫌いだった。

「殿下……」

サングイスはカルワリアを見下ろした。
何も言わない。兄はいつもそうだ。
大事なことは何も言わない。
いつからこうなってしまったのだろうとウェーナは虚しくなる。

「だから言ったのに。祖父に何を言っても無駄だ」

大事なことは何も言わない上に余計なことは言う。 
ウェーナはまた怒鳴りたくなったがぐっと堪えた。
カルワリアは目を伏せて「そのようですね」と小さく答えた。

「ですがこのままでは」

「やめておけ。何も言わないで目立たないようにしていればいい」

サングイスがカルワリアの肩に触れようとしたが、その手を握り何も言わずに出て言った。
ウェーナは彼がカルワリアのことを好きなことに気が付いていた。
カルワリアは美人だ。それに彼女のどこか儚い雰囲気が男たちを惹きつけるのだろう。

だが妹は知らなかったが、サングイスがカルワリアのことを好きなのはそういう面ではない。
見た目に反して考え無しで行動する所や、頭の回転が速い所が好きだった。
だがその想いを伝えるつもりは彼には無い。
伝えたところで何も変わらないし、彼にとって恋愛感情以外に優先するべきことが山ほどあったからだ。
彼の祖父だ。
祖父がカルワリアに酷いことをしても、祖父がそれでいいというなら止めるつもりは無かったし、カルワリアを殺せというなら殺しただろう。
サングイスは祖父を心酔していた。それと同時に諦めてもいた。
どうせ自分は王にとって手駒に過ぎない。気分が悪い時に殴れば多少スッキリする、サンドバッグだ。
だがいつかは認められたい。

カルワリアは消毒をされ、痛みをこらえながらヨロヨロと立ち上がった。
ウェーナはその後ろ姿を眺めて限界を感じていた。 
もう、これ以上は誰も傷つけたくない。 
 
しかし彼女の願いは叶わない。 

ウェーナが自室に戻ると、テラスにユグルムがいるのがわかった。
彼が光を受けながら輝いている姿は妖精のようで彼女はしばらく眺めていた。
もしかしたらもう会うことはできないかもしれないから。

「ウェーナ」

ユグルムはこちらを見て嬉しそうに笑うと軽やかな足取りでこちらに駆け寄った。

「ユグルム、来てたんだ」

「うん。さっきお客さんが来てたから歌ってきたよ。
……ウェーナどうしたの? 悲しいことあった? 」

悲しそうな顔をしていたのだろうか、とウェーナは慌てて顔を引き締め首を振った。
しかしユグルムは悲しそうに眉を下げたままだ。

「何があったの? 」 

彼は細い腕をウェーナの背中に回して抱き締めた。
ウェーナの華奢な体が震える。だがユグルムが知る限り彼女が泣いたことは無い。
今日も苦しそうに息を吐いてユグルムにキツく抱きつくだけだ。

「心配してくれてありがとう。大丈夫」

「……そう? 」

「うん。でももう少しこうしてて良い? 」 

「いいよ」 

ウェーナの腕に更に力が入る。

「俺ウェーナとこうしてるの好きだよ」

「私も。ずっとこうしてたい」

それは無理な願いだとわかっていた。
5日後は彼女の未来の夫であるケルパー国の王子と顔合わせの日であった。
ブルート王子は血濡れの将軍とあだ名されるほど恐ろしいらしい。
そんな男と結婚などしたくなかったがそれが和平に繋がるならばと抵抗しなかった。 
ついこの間までは。 

「ずっとー? ご飯どうするの? 」

ユグルムの疑問にウェーナがクスクスと笑う。
彼女の声は、ユグルムといるとき低く柔らかくなる。彼はそれが好きだった。
ウェーナもまた自分といる時のリラックスしたユグルムの表情が好きだ。

「ウェーナのこと好きだよ」

「……私も」

ウェーナは、ユグルムと自分の好きの意味が違うのは承知していた。
それでも構わない。ウェーナはただユグルムとこうして穏やかに過ごしたかった。
例え自分が誰かと結婚しようと、心はユグルムを思い続ける。
ユグルムが小さく歌った。美しい音がウェーナの心を満たしていく。

「ユグルム、好き。大好き」 

「なら、側にいてくれる……? 」

ウェーナは迷う。
彼に本当のことを伝えるべきなのだろうか。
しかし、彼女はテルグム王がケルパー国の同盟を反故することに気が付いていた。
結婚もどうせ仮初めだ。すぐに国に帰されるだろう。もしかしたらあちらで殺されるかもしれないが。
それでもこの国に帰って来るつもりだった。祖父や兄に政を任せてはおけない。

「ずっと側にいる」

だが、その言葉はウェーナ自身が反故してしまった。

ユグルムの食事に毒が入っていた。
彼は3日もの間医者が掛り切りの状態だった。
そして4日目、彼が目を覚ますと彼の澄んだ声は失われていた。

ウェーナと仲が良いことを妬んだ者の犯行だった。
彼女は己を恥じた。自分勝手にユグルムに好意を示したりして、こうなることが分からなかったのだろうか。

「……ウェーナ、どうしよう。歌うたえないかもって」

ユグルムの嗄れた声に胸が潰れそうになった。
自分が彼の声を奪ったのだ。
ウェーナは何も言えずただユグルムを見つめることしかできなかった。

その様子を見たユグルムは勘違いをした。
ウェーナは歌の歌えない価値の無くなった自分に対して怒っているのだと。

「ご、ごめんなさい。俺が気をつけなかったから。
でも、歌えなくても良い? 俺のこと側に置いてくれる? 」 

いつもみたいに、笑って許してくれると彼は思っていた。
だがウェーナは返事をしなかった。
そのまま部屋を出てしまったのだ。

捨てられたのだ、とユグルムは直感的に思った。
彼は孤児だった。生まれた時からここに来るまで何度も何度も色んな人に捨てられた。
だがウェーナはそんなことしない、自分を捨てたりしない。そう思っていたのに。

「ウェーナ……」

嗄れた声で呼んでもウェーナは来ない。
そのままユグルムは城を追い出された。

ウェーナは彼のことにショックを受け、ユグルムを彼女の側に置かないことにした。
ここよりも環境の良さそうで歌を勉強出来る施設を探す。それは既に探してあった。
彼女はユグルムをそこに連れて行くための承認を王に求める。 
だが王は「能の無い白痴などどうでもいい」と吐き捨てた。 
ウェーナは頭が真っ白になった。

それから感情のままに叫んでいた。

王がケルパー国の同盟を切ることを知っている、何が和平だ、全部向こうに教えてやる、などと叫んだ。
王は激昂し「役立たずのくせに口答えするな! 」と杖をウェーナの頭に振り下ろした。
ウェーナは脳裏に父親の死んだ時の光景がよぎった。
杖で頭を殴られれば死ぬ。
杖は反射的に避けていた。代わりに顔に思い切りぶつかり、左頬がカッと熱くなる。

気が付けば彼女は小汚い掘っ建て小屋に寝かされていた。
高熱で意識は朦朧とし、長い夢を見ているようだった。

ユグルムの歌が聞こえる。

これは幻聴か。

「ウェーナ、起きて」

囁く彼の声にウェーナの意識がグンと上がった。
目を覚ますと彼女はユグルムの膝の上で眠っていた。

目の前は美しいバラ。どうやら本当に眠ってしまったようだ。

「……ごめん、夢見てて……」

ユグルムは彼女の傷ついた頬を撫でた。
彼は無遠慮にそこに触れる。その度ウェーナはビクビクした。
気持ち悪いと思われているんじゃないだろうか。
怖いと思われているんじゃないだろうか。

「痛い? 」

「痛くない……」

「よかった」

ユグルムは頭を下げて彼女の傷口にキスをした。
早く治りますようにと願いを込めて。

「ユグルム、そ、んなとこにそんなことしないでいいの」

「どうして? 」

「気持ち悪いでしょう」

「気持ち悪い? いやだった? 前もイヤがってた」

ユグルムが顔に悲しみを浮かべたのでウェーナは慌てて否定した。

「まさか! 違う……あなたに汚いところに触れて欲しくないだけだから」

「きたない……」

「傷口」

赤い肉の捲れ上がった傷口を汚いとユグルムは思っていなかった。
彼からしたら単なる傷にしか過ぎないし、それはユグルムにもカルワリアにもサングイスにもテルグム王にも皆にあったものだ。

「傷口は汚いの? ならカルワリアもオレも汚い? 」

「そんなわけない! ちがう! そうじゃない! 」

ウェーナはがばりと身を起こしてユグルムに食ってかかった。

「この傷が汚いのは私が祖父も兄も切り捨てた証だからだよ!
私はあの時、二人を殺して国を建て直すと誓った……その証」

「それがどうして汚いの」

「家族を犠牲にすることしか思いつかなかった。もっと前から何かできたのに。
私はそうすることで王になる。血で生まれたようなものじゃない」

「でも、テルグム王はずっと誰かを殺してた」

ウェーナは息を飲んだ。
ユグルムは彼女に問いかけた。

「テルグム王は汚い? 」

「……汚いに決まってるよ。息子も殺して、皆みんな殺して、それでもあの椅子に縋り付いていたんだ……」

「でもウェーナは王が好きなんでしょ? 」

彼女は何も言えなかった。
その通りだった。
幼い頃、祖父は優しかった。祖母が死んでああなったとまことしやかに囁かれていたが実際のところは知らない。
だが、彼女が大きくなるにつれ王はドンドン狂っていった。
人を傷つけることしかできない祖父に軽蔑しつつも彼女は愛していた。
いずれ昔の王のようになると信じていたのだ。サングイスのように。

「好きなわけない。死んで良かった。これで誰も死なずに済む」

「ウェーナの強がり」

ユグルムは微笑んで彼女を抱きしめた。

「王さまのこともお兄ちゃんのことも好きなのに」

「そんなわけないじゃない……」

​ウェーナはブルートに殺されていった二人を想う。
首を撥ねられた二人。
確かにあの男は血塗れの将軍だった。
我が国の血に塗れている。

「泣いていいよ。オレ誰にも言わない」

「泣かない。
あの2人は恐ろしい加害者だよ。被害者がいるのに加害者を想って泣いたりなんてしない」

祖父がいたせいで何百人、何千人、何万人もの人間の命や人生が壊された。
泣いてたまるか。ウェーナは強く思う。

ウェーナが二人を想って泣いていいのは国を建て直し、そして狂王の支配を忘れられた時だけだ。
それまでは泣かない。

唇を噛み締める彼女を見つめ、ユグルムは喉を震わせ歌をうたう。
鎮魂歌だ。
彼の美しい声音はきっと分け隔てなく振り注ぐ。

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