02.不可思議のオーヴァチュアⅠ
ウォクスに部屋まで送ってもらう。
彼に誤解を招くようなことは慎もうと伝えると任せなさい、と大きく頷いた。
部屋に戻ると先ほどまでの侍女ではなく、見たことのない侍女がいた。
恐らく記憶喪失後初めて会うのだろう。
「ああウェーナ様おかえりなさいませ。
お疲れですか? 何かお茶を入れましょう。おやウォクス様もいらしたんですね。
お茶をお持ちしますからお待ちくださいね」
その猫のように大きな目をした侍女は早口でそういうとサッサと出てってしまった。
私が口を挟む余裕もなかった。
ウォクスを見ると何故か嬉しそうにニコニコしている。
お茶がそんなに好きなのか。
「お待たせしました。さあさあお掛けになってください。
ウォクス様もそんな壁際にいないでソファ使われたらどうです? あ、ウェーナ様、良いですよね? 良かった。
ではこちらに。
これはミルクと蜂蜜をたっぷり淹れた紅茶ですよ。きっと休まります。
お代わりはたくさんありますからドンドン飲んでくださいね」
部屋に戻ってきたと思ったらこれだ。
私は言われるがまま鏡台の前にあったフカフカの椅子に座りウォクスもソファに座った。
侍女はテキパキとした仕草でお茶を渡してくる。
不思議な匂いだ。私は一口飲んだ。
混沌。
このお茶の味に相応しい言葉はそれだろう。
酷く甘いのに、苦味があってさらに酸味がチラチラと見え隠れする。
なんだこれは……お茶……?
私の困惑をよそにウォクスは2杯目を貰っていた。彼は味音痴なのだろう。
「ウォクスさんはいつもたくさん飲みますね。お疲れですか? 」
「いえ、ネルフさんの淹れるお茶が美味しいのでつい飲んでしまうんです」
彼はまるで恋する乙女のごとく頬を染めはにかんだ。
おやおやあ? 私は眉を上げる。
なんだか甘酸っぱい匂いがするなあ。
「嬉しいこと言ってくれますね。ささ、どうぞ。お菓子ですよ」
侍女、ネルフはニコッと笑いクッキーを渡してきた。
紅茶の件もあり、恐る恐る口に運ぶ。
……凄まじい味だ。全ての味覚を足したような。
「美味しいです」
ウォクスが微笑む。あんなに凄まじいものを食べていながら微笑むことができる余裕。凄い。
なんでだろう、不思議なことに彼のことが可憐な淑女のように見えてきた。
私はお茶のおかわりを渡されないようゆっくりゆっくり飲んだ。
味がすごくて早く飲めないというのもある。
ネルフはニコニコしながらウォクスにお茶を注ぎクッキーを渡していた。ウォクスも嬉しそうだ。
「そういえばウェーナ様お加減は? 記憶喪失とは伺ったのですけれど。
ああ、ということはわたくしのことも覚えてらっしゃらないですよね。わたくしはネルフ。あなたの侍女の1人ですね。
なんでも申しつけください。
それからわたくしは他の方のように嫌味を言ったりすることは得意ではないのでご安心を。
逆に褒めたりとかも得意ではないのですけどね」
ネルフは美しいお辞儀をしながら一気にそう言った。
口を挟む余裕がなく、私は「おお」と言うのがやっとだった。
「では、わたくしはそろそろ次の仕事に向かうので失礼いたします。
飲み終わったカップはそちらの台に置いておいてくださいませ。
戻り次第下げます。すぐに戻りますから」
彼女は私たちが返事をする間も無く出てってしまった。忙しない。
ウォクスはウットリとした表情で彼女の出てった方向を見つめている。
「ウォクスさんって、ネルフさんにぞっこんラブなの? 」
「え!? やだ、なんでわかったの? 」
「隠す気あった?
でも驚いたよ。てっきり男が好きなのかと思ってたから」
「彼女に会うまではそうだったのだけど……」
ウォクスは頬を染め手を当てた。
乙女な仕草だ。
「でも無理にお茶飲まなくても」
「え? 美味しいじゃない、あれ」
「……あなたたちお似合いだと思うよ」
少なくとも私には美味しいとは思えない味だったし。
ウォクスは私のお似合いという言葉に大喜びしていた。
* * *
ウォクスを下がらせ、1人部屋の捜索を始める。
日記なんかがあれば助かる。そうでなくてもなにか、記録、やっぱり日記……日記を付けていないものか。
「何をしている」
後ろから冷たい声がした。
驚いて振り返ると、我が夫シェーデルと我が侍女ネルフが立っていた。
ネルフが立ち去る前に言っていた仕事とは彼をここまで連れてくることだったのだろう。
「私は日記などを書いていませんでした? 」
「知らん」
会話終了!
ずっと私たち夫婦はこんな感じだったんだろうか。
そりゃ浮気も疑われる。 こんなに冷めているのだから。
日記の捜索を諦めてシェーデルに近づいた。
何か話があるのだろう。
だがシェーデルは途端に顔を顰めると私の二の腕を力強く掴んできた。
「……随分と甘い匂いがするな? 」
また怒っている。
この人の怒っていない顔を殆ど見ていない。
「先ほどお茶を頂きまして」
「いつも思ってたんだ。男がつけるには甘ったるすぎる匂いだなと」
その言葉でやっと気が付いた。
彼は、ウォクスのコロンの匂いが私に移っていることを指摘しているのだ。
これは仲良くなるチャンス。同意を示して好感度を得よう。
「私もそう思います」
「開き直りか? 」
「え……」
「ただ一緒にいるだけじゃここまで匂いは移らないだろう。……何をしていた」
二の腕を掴む手に更に力が入る。痛い。
声も怒りで震えているし、顔も今にも私に噛みついてくるんじゃないかという形相だ。
「お、落ち着いてください。
私と彼は友人です。彼は私の記憶が無いことを慰め、私を抱き締めたんですよ。
あくまでも友愛の表現です」
抱き締めた、という言葉を使ったのはよくなかったのか。
彼の怒りが大きくなったのがわかる。
「友愛、ね」
「そうです。シェーデル様もしますでしょう? 」
彼の冷たい瞳を見て、この人そんなことしないなと直感した。
仕方がないので私は空いた手を彼の背中に回した。
しっかりした体だ。鍛えているらしい。
「ほら、こうやって……」
顔をシェーデルの胸に寄せると、私の二の腕を掴んでいた彼の手の力が抜けていく。
それから徐々に彼の全身の筋肉が凍りついていっているのがわかった。
夫婦なのだからこれくらい良いだろうと思ったのだがそうではなかったらしい。
弁明の為とは言え悪手だった。
私は彼から離れる。
シェーデルは手で顔を覆っていたが、やがて手を下ろし困惑した顔で私を見下ろした。
「……記憶が無いのは本当なのか……? 」
「……? はい。本当ですよ」
彼は戸惑った、どこか泣きそうな顔をして、私の頬に手を伸ばした。
温かい手が私の頬を包む。親指が私の目尻を撫でた。
「……我慢しているのか? 」
「なんの話です」
「なんのって、お前は……」
私の頬を包むシェーデルの手に自分の手を重ねた。
彼はますます困惑した顔になる。
「……私たちは夫婦ですよね? これくらい当然でしょう? 」
さきほどの怒りは何処へやら、彼は酷く狼狽えていた。
私の頬から手を離すと「当然じゃない」と囁く声が聞こえる。
「当然じゃないんだよ。こんなこと、お前はしなかった」
シェーデルの青い目が異様なものを見るような目つきで私を見ていた。
「お前は俺のことを決して受け入れようとしなかったじゃないか……」
……どういうことだ?
その言葉の意味について聞こうとしたが彼は身を翻し「本当に記憶が無いなら対処しなくてはならないことが山ほどある」と言って出て行ってしまった。
残されたネルフに何か聞こうとしたが彼女もシェーデルの後を追って行ってしまう。
私とシェーデルの関係はどんなものだったのだ?
それを知るにはやはり私自身のことを知る必要がある。
日記でなくてもいい。何か私の趣味嗜好がわかるものはないか。
部屋の引き出しという引き出しを開け、本棚の中を覗き、ベッドの下まで捜索する。
しかしわかったのは私という人物の生活感の無さだけだ。
引き出しの中には贈り物らしき宝飾品の小箱がいくつも入っていたが箱から出された形跡はなく、本棚にあるのは小難しい歴史の本や哲学、政治の本で、ベッドの下は埃もなかった。
鏡台の引き出しも同じようだ。ただこちらの宝飾品は使われていたらしい。綺麗だが使用感がある。
私は一体どういう人物だったのだろう。
宝飾品には全く興味がないということはよくわかったが、それだけだ。
侍女の1人から専用のクローゼットルームがあると教わりそこへ向かう。
そこは圧巻だった。大量の靴やドレスが整然と並べられ、虹色のグラデーションになっている。
「これ多すぎないかな? 」
金髪の侍女は「殆ど着てませんでしたよ。勿体無い」とため息をつく。
「着てない!? なぜ? 太ったとか? 」
「さあ。知りませんけど ……。好んで着ていたのはそこの一画のみです」
侍女の指差したところを見た。
他のドレスと変わりないが、こちらの方が着やすいのだろうか?
「そういえば宝飾品も決まったのしか使っていなかった。私はそういう偏執的な人間だったの? 」
「ああ ……あの宝飾品ですか ……」
侍女は目を伏せ息を吐いた。
「あれはシェーデル様があなたに贈られたものですよ。あなたはそれを開けようともしなかった」
「えっ……そうなんだ。私って結構冷たい人だったんだ」
趣味に合わなかったとしても一度くらい付ければいいのに。
「もしかして殆ど着てなかったドレスもシェーデル様からの贈り物とか? 」
「そうですよ」
なるほど。シェーデルの言っていた受け入れようとしなかった、という言葉はそういう意味か。
申し訳なく思い、彼のくれたドレスを1着取り出した。
背中がガバッと開いた大胆なデザインだ。
ちょっとこれは恥ずかしいな。もう1着取り出す。
今度はデコルテの開いたセクシーなデザインだった。
「……シェーデル様は、セクシーなのが好みなのかな」
「単に最近の流行りのものをオーダーしたのでしょうね」
「最近の流行りはセクシー系? 」
「セクシー ……というほどのものでしょうか? あくまでも私個人の意見ですが、一般的なデザインだと思いますよ」
うーんと首を傾げる。文化の違いだろうか。
覚えていないが、もしかしたら祖国ではこういったものは着なかったのかもしれない。
「私に悪気はなかったのかもしれない」
「そうでしょうか? 」
「ほら、こっちのよく着ていたって方は、ちょっと古臭いけど胸や背中が隠れるデザインでしょ。
スカートの丈も長い。露出が嫌いだったんだろうね」
「……確かに、言動はともかく格好は奥ゆかしかったですね」
自分の体に自信がなかったのか……ただ単に照れ臭かっただけかもしれない。
「今後はこちらのものも着よう。今の私に羞恥心は無い」
「記憶が無くなると慎みも無くなるのですね。ああ、元々ありませんでしたか」
「……あなた、随分棘があるね……良いけどさ」
後に知ったのだがこの金髪の侍女の名前はトレーネといった。
代々王家と関わりが深いらしく、特にシェーデルのことを敬愛しているようだ。
なるほど、私は邪魔臭くて堪らないだろう。
しかしどうやら私が邪魔臭くて堪らないのはトレーネだけではないようだった。