01.喪失のイントロダクション
声が聞こえる。
声は水の中のようにくぐもって聞こえて、なんて言っているのかわからない。
私は目を開け体を起こそうとするが、どうしても体動かない。
なんだか全身が痛いなあ。
* * *
「ウェーナ様……! 」
次に目を開けると、驚いた様子の女たちと、ほっと胸をなでおろす小太りの男が目に入った。
それから天蓋付きのフカフカのベッドに自分がいることに気がつく。
「お加減はいかがですか? 頭などは……」
小太りの男は医者であることが首から下げた聴診器と足元の黒い鞄から伺えた。
あごひげを蓄えた厳しい顔つきで、パリッとした衣類を身にまとっている。
「はあ、まあ、良いのではないでしょうか」
私の声は掠れていた。
久し振りに声を出したからだろう、と思いふと気づく。
いつから声を出していない?
そもそも、この人たちは、私は誰だ?
「それは良かった。ですが……」
言葉を紡ごうとした医師を遮り私は上体を起こした。節々が痛む。
「あの、やはり具合が悪いようです。どうも記憶が……あなたは一体……そして私は何者でしょう」
私の言葉に側に控えていた女たちが息を飲んだのがわかった。
「これは……記憶喪失、ですか」
医者が呆然としたように呟く。
それしか考えられない。しかし記憶喪失でも記憶喪失であることに気がつくとは、なんとも面白い。
* * *
その後現れた神経質そうな初老の男から聞いた話だと私の名前はウェーナというらしい。
コルプス国の王女であり、歳は18歳。
ここケルパー国にはつい半年ほど前に嫁いできたそうだ。
話を聞く限りだと所謂政略結婚で、一度は戦争間近となったバチバチに仲の悪い両国の同盟を結ぶために私とケルパー国の第2王子とが結婚したそうな。
「ですが、ケルパー語を覚えていてくださって良かった。コルプス語なんぞで話されても我々には分かりませんから」
初老の男は冷たく言う。
どうやら私はこの場に歓迎されて来た訳ではなさそうだ。
初老の男が礼をして部屋から出て行こうとするがそれより前に男が入って来た。
美しい男だ。
それと同時に冷たく、荒々しそうで、私は思わず布団を握りしめた。
薄茶の軽くウェーブした髪に、すっと通った鼻筋、薄く紅い唇。
何よりも印象的な切れ長の瞳が私を捉える。
「……記憶が無いと聞いたが? 」
その青い目は冷たく私を鋭く見下ろしている。
初老の男が最上級のお辞儀をしていることから察するにこの男が私の夫なのだろう。
この態度からして夫婦仲が円満だったとは思えない。残念だが。
「ええ……」
聞きたいことは山ほどあったが、男から放たれる怒りのオーラに私は口を閉じた。
何を怒っているのだろう。
「そうやって、記憶喪失を装えば逃げられるとでも思っているのか? 」
なんのことだ。
私は初老の男を盗み見るが知らん顔だ。控えていた女たちもすまし顔である。
「逃げ……る……ですか? 」
「惚けても無駄だぞ」
「ですが、その、名前も知らぬ相手から逃げるつもりなど毛頭ありませんし……」
私たちは夫婦ですよね? と聞こうとしたがそれは言葉にならなかった。
男はサッと顔色を変えると鬼の形相で私の肩を掴んだ。
「いい加減にしろ! 」
男の怒鳴り声は私の鼓膜どころか脳までを震わせた。
恐ろしい声音。こんな男が私の夫?
「いいか? お前がここから出たところで野垂れ死ぬのが関の山だぞ」
低く地を這うような声で私を脅す、私の夫らしき人物。
恐らく記憶が無いことを怒っているのではない。記憶があったときの何かを怒っているのだろう。けれどそれは私にはわからない。
とにかく怒りを鎮めてもらおうと震える口を開く。
「わ、たし、その、野垂れ死にたくありません……」
「随分としおらしいな? いつもの生意気な口はどうした。それともまだ記憶喪失のフリを続けるつもりか? 」
「フリではなく、本当にわからないんです」
男の目が更なる怒りに染まって行く。
その目を見たとき私の頭が酷く痛んだ。呻き声を上げ頭を抑える。
「ウェーナ様……? 」
私たちのやり取りを冷めた目で見ていた中の1人、金髪の女が困惑した声を出した。
「ちょっと、頭痛が……」
そういえば私なんで倒れてたんだろう。
全身が痛かったのは辛うじて覚えているが……と思ったとき、男が私の肩から手を離した。
おやと思い顔を見ると、そこには狼狽の色が浮かんでいた。
しかしすぐにそれを引っ込めると「クソッ……! 」と吐き捨てて私の部屋から出て行った。
怖かったし、頭も痛い。
記憶は無いが、初老の男も、控えている女たちも、更には夫までも私の味方ではないということが今の数分でよく分かった。
私は皆を下がらせて布団に潜り込んでこっそり泣いた。
私もといウェーナに味方はいないのだろうか?
* * *
私に味方はいないらしい、ということはたった1日で充分実感していた。
侍女達はよそよそしく、また私が何か間違えたことを言うとクスクスと意地悪く笑う。
これでは困ってしまう。私が何故倒れていたのかそれすらもわからない。
このままではいかん、と思い城の中を歩き回ることとした。
「そんなわけなので護衛の方とか呼んでもらえます? 」
私の言葉に侍女の1人が意地悪く笑う。
「まあ、ウェーナ様ってば……。もう少ししっかり演技をしては? 」
演技とはなんなのかと私は首を傾げるが、彼女はニヤニヤ笑ったまま護衛を呼んだ。
現れたのはがっしりした男だ。
黒い髪にしっかりした眉と、茶色の穏やかそうな瞳は私に安心感を与える。
この人が護衛なのか。確かに強そうだ。ムキムキだし。
「ウェーナ様! お加減は? 」
男が心配そうに私の顔を覗き込む。彼が動くとフワリと甘い匂いがした。
どうやら彼は私が記憶喪失であることを知らないらしい。
「すこぶる悪いですよ。なんと言っても記憶が無くて。
あなたには申し訳ないが名前を教えて頂けると助かります」
男がギョッとしたように目を見開き、それから目頭を押さえた。
「……ウォクスです……」
も、もしや泣いている? こんな大男が……?
「な、泣かなくても……そのうち戻るとお医者様は言ってたんで安心してくださいな」
「い、いえ。泣いてなど。
ただ、ウェーナ様がそこまで追い詰められていたことを知らず……己の非力さを悔やんでいるのです」
なんて優しいのだろう!
私に優しい言葉をかけてくれたのはこの男が初めてだ。私は背伸びをして彼の肩を叩き慰めてやった。
「心配せずとも記憶は戻りますよ。それまでは面倒をかけると思いますがどうぞよろしく」
「その根拠はなんなのでしょう……」
「記憶が無いのでなんとも」
ただ記憶が無いならこれから知っていけばいいし、新たに作っていけばいい。
私がそう言うとウォクスは私を拝むように手を合わせ、潤んだ瞳で見つめてきた。
変な男である。
* * *
城の中を散策するなら着替えるべきだとウォクスに進言され、私は侍女に着替えを手伝ってもらうことにした。
30手前だろうか、美しく品があるが私のことは嫌いなようで常に冷たい表情をしている。
侍女は意味ありげに微笑んだまま「逢瀬でしょうから綺麗な格好を致しましょうね」と言ってくる。
「逢瀬? 夫と会うの? 怒りが収まっていれば良いけれど」
私は上着に袖を通す。
面倒なので上着を着るだけで良いと思ったのだ。
「誤魔化さなくても良いですよ。
ウォクス様とそういった仲なのはこの城中の人間の知っていることです」
なんと! そういった仲というのはつまり、そういった仲なのか!?
私は唖然として金髪の侍女を見つめた。
侍女は私の表情に怪訝そうな顔をする。
「今更驚かなくても。
常に側に侍らせていればそりゃわかりますよ」
「いやいやいやいや。そうなの?
私は随分倫理観のない女なんだね」
鏡の中の自分を見る。黒い髪に弧を描いた太めの眉と茶色の垂れ目。
ちょっとやつれて18にしては老けて見えるが我ながら人が良さそうに見えるのに。
「ええ。ですからシェーデル様もお怒りになってあんなことを……」
「シェーデル様? あんなこと? 」
「……本当に記憶が無いのですか? 」
だからそう言っているだろうに。
私が侍女を軽く睨むと彼女は信じられないと言った。
「シェーデル様は、あなたの夫であり我らが王子の名前でございます。
彼はあなたの浮気を咎めたんですよ。
そしたらあなたは逆上してシェーデル様に襲い掛かり返り討ちにあって階段から転げ落ちたんです」
なんと間抜けな女! 呆れて開いた口が塞がらない。
「それは、なんというか、いい気味だね」
「そうなんですよ。
まさか記憶喪失になるだなんて。みんな嘘だと思ってます」
周りの冷たい態度はそういうことだったのか。身から出た錆だ。悲しくなってきた。
「ウォクスに会うのは控えた方がいいよね。彼にそう伝えてくるよ」
「それがいいでしょうね」
私はその場を飛び出し外で控えていたウォクスを捕まえる。
「あなた、私の浮気相手なんだって?
悪いけど記憶が戻るまでは恋だの愛だの言ってられないから……というか倫理的にどうかと思うし、別れてくれると助かります」
いきなりの私の言葉にウォクスは面食らったのだろう。目を白黒させて「へ? 」とか「なにを? 」とかつぶやいている。
やがてハッとした表情になると私の腕を軽く引いて衣装部屋に連れ込んだ。
「ほんっとうに覚えてないの? 」
ウォクスはジロジロと疑わしげな目で私を見た。
「おうともよ」
「そんなあ! じゃあ、あたしのこと丸きり忘れてるってわけ!? 」
……? あたし?
「えっ」
「えっ、じゃないわよお! 同郷のよしみでずっと仲良くして、あたしたちはソウルメイトだよね! って話してたのに……それすら覚えてないの!? 」
ソウルメイト……?
というか、彼、いや彼女?
「……オカマ? 」
「その呼び方やめて頂戴! 」
ウォクスは腰に手を当て頬を膨らませた。
なんと、そうか。
「浮気相手なわけないのか。男が好きなんだもんね? 」
「ハア……そこも忘れてるってわけね」
「ごめん……」
「……いいのよ。あなたのせいじゃない。きっとあのパワハラ夫のせいなんでしょう? 」
ウォクスは悲しげに目を伏せた。まつ毛が長い。
「どうも浮気を咎められた私が逆上して旦那に襲い掛かったところ返り討ちにあって階段から転げ落ちたらしいけど……」
ウォクスが浮気相手ではないということはその話は嘘ということか?
彼も怪訝な顔になる。
「疑われてるのは知ってたけど違うってはっきり言ったわよ? 納得していたと思ったけれど……。
それにあなたはここであんまり必死になって否定すると逆に疑われるから堂々としておくって言ってたじゃない。逆上するだなんて考えられないわ」
どういうことだ? なら私はなぜ転がり落ちたんだ。
「でももしその話が本当ならあたしの責任ね……ごめんなさい。
本来ならあたしたちってこうやって気軽に話していい身分じゃないものね」
「いやいや、ウォクスさんのせいじゃないよ。受け身の練習をしなかった私のせい」
「受け身の練習をする王女なんてこの世にほとんどいないわよ……」
私も見当がつかない。多分みんな受け身の練習なんてしない。
「でもどうして私は浮気だと誤解されてると知ってあなたと仲良くしていたの?
別に、仲良くしたくないってわけじゃないよ? ただ王女としてそれはどうなのかなと」
ウォクスは困ったように眉を下げ両手を握った。
仕草がいちいち可愛らしい男だ。
「……あなたはずっと、悩んでいて。
ケルパー語を話せるようにして決してコルプス語を使わなくても、衣服をケルパー国に合わせたものにしても、なにをしてもあなたは周囲から受け入れてもらえなかった。
そんな中でたまたま護衛に配属された同じコルプス国出身のあたしと出会って、あなたは……まあこれはあたしがそうだったらいいなってだけだけれど……多分癒されたんじゃないかしら。
あたしがこんなだからっていうのもあるだろうけど、あなたは身分の差を無いものとしてあたしと仲良くしたわ」
ウォクスは言葉を切って気遣わしげに私を見つめる。
その瞳は酷く優しい。
「あなただって誤解を生むような行動は控えなくてはとわかっていたわよ。
でもシェーデル様はいつも暴言ばかり吐いているから……追い詰められていたのよ……。
皆の前では気丈に振る舞っていたけれどあたしと2人きりになるといつも泣いていたわ……」
彼は私の頭に手を乗せ何度も撫でた。
そうなのか。ウェーナはなんて可哀想なんだろう。
「シェーデル様ヤバくない? 私可哀想」
「シェーデル様だけじゃないけれどね。
ああ、ウェーナ様……本当にごめんなさい。あたしは護衛なのにあなたを守れなかった……」
ウォクスは涙目になると私をそっと抱きしめた。
随分甘いコロンの匂いがする。男物ではないだろう。
「命に別状は無いんだから気にしないでいいよ。
ほらほら、泣かないでいいからさ」
私が背中をパンパン叩くと彼は鼻をすすりながら私から離れた。
懐からハンカチを取り出す。見るからに女物だった。
隠す気あるんだか無いんだか。
「ごめんなさい、あたし涙脆くて……」
「謝るようなことじゃない。感受性が高いことは良いことだよ」
ウォクスが落ち着くのを待って私たちは衣装部屋から出る。
彼と話すのは恐らくあまり良くないことだろう。
しかしこの城の中で私の味方は彼しかいないようだ。となると、浮気だのなんだのという噂は無視して彼と会うしかない。
そうなることが私の記憶を取り戻す第一歩となるはずなのだから。